空青く水清く緑豊かな自然が息づく村、そして文化財の村
ゆがわむら
湯川村
 
豊かな水に恵まれ、空気がきれいな住みよい村
いきいきとした顔あふれる「米と文化の里」湯川村
 
 湯川村を語るときそれは、稲作の歴史でもあります。全てを手作業で行っていた時代から、機械化された現在まで、湯川村の人々は稲作と共に生きてきました。実りの秋を迎えるときが村が一番活気づく時でもあります。福島県でも有数の米所、湯川村にとって稲作は重要な生活基盤です。
 
湯川村の春
田植えの終わった田圃
春を告げるふきのとう
春の風物詩・念仏踊り
     
湯川村の夏
青々と育つ稲
湯川村の花アジサイ
子供が元気に遊ぶプール
     
湯川村の秋
秋の収穫
実り豊かに頭を垂れる稲穂
村の宝・元気な子供達
     
湯川村の冬
湯川村の雪景色
スキー教室
受け継がれる厚い信仰
 
 
村の文化財
 
 
 村の文化のシンボル的存在である「勝常寺」は、大同2年(807年)法相宗の碩学徳一上人によって開かれたと伝えられる東北を代表する古刹です。平成8年には、木造薬師如来と両脇侍像が国宝の指定を受けました。
薬師堂(元講堂)は、会津五薬師の一つで、室町時代初期に再興されました。
 
     
国宝薬師如来三尊像
月光菩薩
薬師如来
日光菩薩
     
気迫に満ちた仏像群
 薬師三尊のうちの中尊は、高さが141.8センチ。肩幅や胸の厚さがたくましく、どっしりとした巨体で、何者をも恐れない気迫に満ちています。それでいて、体と比べて手は小さく、繊細さが感じられます。
両肩から胸、膝を覆って流れる太目の整った衣紋からは、躍動感が伝わつてきます。顔も独特です。ふくよかなわりには、どこまでも不適な面構えです。
脇侍の日光、月光菩薩は、高さが170センチ前後で、中尊と違って激しさはありません。穏やかな感じであり、均整の取れたスラリとした印象を受け、中尊と同じように、下半身に摩みがあります。
薬師三尊以外の四天王像、聖観音菩薩像、十一面観音菩薩像、伝虚空蔵菩薩像、地蔵菩薩俊二体など九躯の仏像も、国の重要文化財に指定されています。
     
四天王
多聞天
広目天
持国天
増長天
動時な強い作風の 四天王像
  このうち、四天王の持国天、増長天、広目天、多開天は、薬師三尊と同時代の作といわれます。いずれの像も目がユーモラスで、エネルギッシュな生命力にあふれています。
多聞天と呼ばれている像の顔を後世彫りなおしているために、若干見劣りはしますが、奈良時代に制作された大安寺四天王によく似ているといわれる。このほか、ケヤキの一本彫りの徳一菩薩座像も残されています。かなり後になつての作と思われますが、痩せ細った姿は、一切の妥協を排した、徳一の厳しさを彷彿とさせるものがあります。
建物としても、室町時代再建の薬師堂が国の重要文化財の指定を受けています。会津盆地の四季の移ろいの中にあって、そのたたずまいもまた格別です。
勝常寺は一時衰微したこともあったが、平安中期と室町の二度にわたって京都御室御所仁和寺から僧が下向し、現在に至っています。
       
 
徳一上人(とくいつしょうにん)
 会津盆地の中央に位置する湯川村には、大同二年(八 〇七) に法相宗の僧徳一上人が開いたと伝えられる勝常寺があり、平安初期の仏像十二躯が現存します。
  本尊の薬師如来と日光・月光両脇侍像は、平成八年に 国宝の指定をうけており、造像の年代については、九世 紀初めと雅定されています。徳一は延歴二年(七八三)に会津にやってきたと言われ、創建した寺は南東北ばかりでなく関東にまで及んで います。
  奈良仏教の側に立っていた徳一は、天台宗の最澄に論争を挑んだことで知られています。「一切衆生」に仏性を認める仏教の日本化に抵抗し、仏教の本来の厳しさを説いたのでした。
東国の地に寺院を創建し、衆生に救いの道をもたらした徳一に、最澄と同時代人であった空海は、一目も二目も置いていました。弘仁六年(八一五)に、空海から会津の徳一にあてた書簡のなかで、「徳一菩薩は、戒珠氷玉のごとく、智海弘澄たり。斗薮して京を離れ」と書いているほどです。
 
 
湯川村では、教育・福祉・産業などに力を入れています。
皆さんも行政に参加して、よりよい村を作っていきましょう。